インタビュー 2023.09.01

作曲家・都倉俊一氏に訊く日本の「舞台芸術」の問題点とは?

都倉俊一さん/作曲家

2023年3月に、東京医科大学(東京・新宿)で第9回日本舞台医学研究会が開催されました。この研究会の特別講演では、当協会前理事長・丸毛啓史が、作曲家で文化庁長官でもある都倉俊一さんをゲストに迎え、都倉さんの作曲家としての経験やエピソード、日本の舞台医学の問題点などについて対談。今回は、その対談の模様をお届けします。

丸毛:都倉俊一さんといえば、2021年に第23代文化庁長官に就任され、大きな話題になりました。しかしそれ以前に、やはり歌謡曲やポップスなどの作曲家として有名でいらっしゃいます。

例えばピンク・レディーの「ペッパー警部」や「狙いうち」(山本リンダ)、「ひと夏の経験」(山口百恵)など、都倉さんが手掛けた昭和のスターたちの名曲は、誰もが一度は耳にしたことがあると思います。もともとは、どんなきっかけで音楽の道に進まれたんでしょうか?

都倉:僕は父の仕事の関係で、7歳から西ドイツのベルリンで育ちました。そこで中高一貫校に通っていたんですが、実は4歳からバイオリンを学んでいたんですね。バイオリンに限らず、とにかく音楽が好きで、ベルリンではずっと音楽の勉強を続けていました。なので、将来は何かしら音楽に携わって生きていきたいと、漠然と考えていました。

丸毛:なるほど。その後、18歳のときに大学進学のタイミングで帰国されたんですよね。

都倉:ええ。ドイツの高校を卒業して、現地に残るという選択肢もあったんですが、考えた結果、帰国して大学に進学することに。タイミングが良かったと言いますか、日本はちょうど1970年前後の高度成長期で、レコード会社が雨後の筍のように次々とでき始めた時期でした。例えばテイチクやコロンビアなど戦前から続くレコード会社もありましたが、ポニー・キャニオンとかソニー・ミュージックエンタテインメントなど、今も有名な会社はみんなその頃に生まれたんです。

丸毛:日本の大衆音楽シーンが盛り上がり始める絶妙な時期に帰国され、学生生活を送られたわけですね。

都倉:まさにそうですね。学生時代は音楽関係のアルバイト先がたくさんあったので、けっこう裕福な生活を送っていました(笑)。そして1969年、大学3年生のときに、歌手の中山千夏のアルバムに収録する曲がほしいとレコード会社に注文されて作曲したのが「あなたの心に」。これが僕の作曲家としてのデビュー作です。この曲が思いがけずヒットしたこともあり、そのまま作曲家として仕事を始めることになったわけです。結局、それから50年以上、音楽に携わっています。

ヒット曲はいかにして生まれたか?

丸毛:その50年の間に、だいたい何曲くらい作られたんですか?

都倉:いまJASRACに登録されている楽曲の数でいえば、1280曲ですね。

丸毛:そんなに! ということは、単純に50年で割ると、1年に26曲はヒット曲を世に送り出されていることになりますね。私は門外漢ですが、これはものすごい数に思えます。

都倉:例えばモーツァルトは7歳から音楽を作り始めたわけですが、32歳で亡くなるまでに作曲した数は626曲。これをわずか25年で書いています。まるで音楽を作るために天から遣わせられたような、神がかった人物です。しかも彼の時代の音楽は、交響曲やオペラなど、長時間の曲がほとんどですからね。

それに比べて、僕が手掛けてきたのは、映画音楽など長いものもありますが、主に大衆音楽。これはせいぜい3〜4分ですよね。で、50年で1280曲ですから、平々凡々としたものですよ(笑)

丸毛:いやいや、とんでもない偉業だと思います。それにしても、ああいうヒット曲は、どのように生まれてくるものなんでしょうか?

都倉:僕の盟友である作詞家の阿久悠さんの言葉に、「大衆音楽とは時代の飢餓を埋めるものだ」というのがあります。時代はいつでも口を開けて待っている、自分はそこに音楽を供給しているんだ、ということを常々おっしゃっていました。実際、大衆音楽を作るというのは、時代とキャッチボールする感覚と言いますか、時代と一緒に走っていくようなイメージに近いですね。

丸毛:なるほど、時代を読む力が必要なわけですね。

都倉:ただ、実は僕はもう20年くらい流行歌というのを手掛けていなくて、そのほとんどは最初の18年くらいで書きました。忙しい時なんて、一日に5曲くらい作っていましたから。ある時、このまま書き続けると僕は死ぬんじゃないか、と思って(笑)。徐々に音楽のプロデュースやミュージカルの制作などに軸足を移していきました。

丸毛:例えばピンク・レディーの「ペッパー警部」や山口百恵さんの「ひと夏の経験」など、数あるヒット曲の中で、ご自身で特に思い入れのある楽曲はありますか?

都倉:それをお答えするのはけっこう難しいんですよ。というのは、自分は大好きなのに、何らかの事情で世に出なかった“不憫な子(曲)”というのを職業作曲家はみんな抱えていましてね(笑)。自分が好きな楽曲が必ずしもヒットした曲ではなかったりするんです。

よくイチロー選手が通算4千本安打を放った裏には、8千本のヒット性の当たりがあった、なんて言われますが、僕の場合も、実は未公開作品が何千曲と机の中に眠っています。僕が死んだら、誰かがそれを見つけてレコーディングしてくれないかな、なんて期待しているんですが(笑)

丸毛:そうなんですか。とはいえ、自分の曲がヒットするのはやっぱり嬉しいんじゃないですか?

都倉:もちろんそうなんですが、一方で、あまりにも大ヒットして、朝から晩までテレビやラジオで自分の曲が流れていると、ちょっと第三者的になってしまうと言いますか。自分の手をどんどん離れていっちゃう感覚もあるんですよね。

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