インタビュー 2022.06.14

モーリー・ロバートソンさんが語る「心の筋肉」の鍛え方。

ある時はテレビで国際情勢を論じる国際ジャーナリスト、ある時はターンテーブル越しに大いにフロアを沸かすDJ。多数の肩書きを持ち、ジャンルレスに活躍するモーリー・ロバートソンさんの姿は、いまやテレビでもすっかりおなじみ。今回は、そんなモーリーさんをゲストに迎え、青春時代の経験や、激動する世界の中で頭と体を上手に使うコツなどについて語ってもらいました。

日米を行き来した青春時代

 僕が生まれたのは1963年のNY。育ったのはカリフォルニアでした。お母さんは日本人の新聞記者、お父さんはアメリカ人で心臓の専門医。父の仕事の都合で来日し、広島に移住したのは5歳の時でした。最初はアメリカンスクールに通ってたんですが、そのうち「漢字や日本語が使えるようになりたい」と思い立ち、市立の小学校に五年生で転校したんです。

 最初の頃は読める漢字が百字ほどしかなかったうえ、アメリカンスクールは理科も数学も日本の小学校より2年ほど進行が遅かったので、追いつくためにとにかく勉強しました。すると、やればやるだけ成績が伸びていく。で、広島の各小学校の成績1、2番の子しか入れないと言われていた名門中学に合格できました。このとき初めて勉強の面白さに目覚めた気がしますね。

 中学2年の時に、再び父の仕事の都合で広島を引き上げ、8年ぶりに渡米。アメリカではノースカロライナの公立校に転入学、さらにサンフランシスコの公立高校に進みました。日本と違ってさまざまな人種が入り乱れ、子どもにも早くから成熟を求める文化の中で、日米ハーフとしてずいぶん葛藤し、傷つくことも多かった時代です。

 その後、“留学”というかたちで広島の高校に転入学したんですが、受験用の詰め込み教育を強いる体制下で、まったく勉強に興味が持てなくなってしまい(笑)。で、ハマったのがディスコ。音の洪水を浴びて無心に踊る時間が、当時の唯一の救いでした。そんな“素行不良”を繰り返していたから、もちろん成績はガタ落ち。先生からも周りの生徒からもすっかり不良のレッテルを貼られてしまい、広島の高校を自主退学。最終的には、母の故郷である富山県高岡市の進学校に転校しました。

 高岡市にはディスコがなかったので、今度はライブハウスに通うように。そこでパンクロックに出合って衝撃を受けて。近くの工業高校の生徒たちを誘ってバンドを結成し、たまにライブ活動もしていました。そんな中で、自分が東大に合格したらバンドの宣伝になるんじゃないか? と思いついて、猛勉強し始めたんですね。パンクロッカーが東大一直線、って面白いじゃないですか(笑)

 その結果、東大やハーバード、MIT、イェール、プリンストンなど7つの大学に合格できました。で、最初は東大(理Ⅰ)に入学し、メディアに“天才”なんて報道されて注目を浴びたこともあり、目論見通り18歳でプロのミュージシャンとしてデビューもできました。でも、やりたかったパンクは売れないからと許されず、求められるのはヒットしそうなメジャーな曲ばかり。東大も4カ月で中退し、7月からハーバード大学に入学して1988年に卒業しました。学んだのは電子音楽です。日本の大学からすると、ちょっと尋常じゃない量の宿題や読書ノルマが課されるので、途中でリタイアする学生もたくさんいましたね。

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